聖夜にお年玉―「クリスマス・ストーリー」をみる―

けっさくである。撮影、エディットも、やや古典的な方法ではじまったものだから、アルノー・デプレシャンも、いよいよ巨匠の階段を昇りはじめてしまったかと判断しそうになーた。そうではない裏切りにつぐ裏切りが1500分をさいごまで濃密な空間の持続として倦きさせない、これは稀なシネマといってよい。

たしかに、記念碑的青春群像「そして僕は恋をする」同様、人間関係がわかりにくい点は評価の分かれ目。そのわかりにくさという主題がそのまま家族問題に移動した。こんどのrivalは手ごわい。長椅子で笑っているだけではすまされないだろうか。念のためことわっておくと、ホーリーナイトに団欒で観覧できるようなDVDではないように思われる。それでもなお笑いが残るとしたら、映画体験の勝利でなくてなんだろう。朝食(ヴァイキングじゃなかた)のシーンで、恋人がボコボコにされているのを嬉しそうにみつめるユダヤ女の笑いのようにイローニッシュなものかもしれないとしても。いま気づいたのだが、たしか彼は一発も殴りかえさなかった。ソレルの子。テーブルクロスをひっつかんでずっこけるばかり。どうしてだろう?

「家族familiar]とは、ア・プリオリに愛の対象なのか。弧族を喪ったひとにそれを愛せよといえるのか。憎悪してはならないのか。あるいは、なぜsisterと関係を持ってはならないのか、その他、「家族」というだけで許されたり禁止されたりすることが山ほどあるが、誰がそれを決めているのか。パパなのか。Love&Hate。ママなのか、兄弟の多数決か。❥世間体か。そもそも、「人間」はなぜ「家族」なんか発明したのだ、こんなわかりにくいものを。そこからさらにへんな「役立たず」がとびでてきたら追放してもかまわないのか。こどもの作り方を知らなかったというのならわからなくもないが(イエス+は例外)。狂っているのはどちらなのか?sex machi ドゥルーズ+ガタリパラフレーズすれば、ここから外に出ることは、しかし、新たなオイディプスの再生産にほかならない。《結婚はこのうえない名誉と自立性を与えてくれますが、同時に、父上に最も接近していくことなのです。》(カフカ「父への手紙」)ちなみに、カフカは婚約を二度破棄して結核で死ぬ。悲しいエンディング。フランス人の監督だから、「モンテ・クリスト伯」は惑読したろうか。ダンテスはいっていた。

「たいせつなことは、無実な者がけがらわしい密告の犠牲になってはならない、無実の者がむごい人間どもを呪いながら牢の中で死ぬようなことがあってはならない、ということなのです。」(竹村猛訳)

西欧人にしては小柄なほう。が、なみはずれていい顔つきをした、どこか土の匂いのする中年男。ひとまず、この「役立たず」=アンリ(やはり四世ブルボン王に肖ったか)はこんな人物だといえる。彼のなにが気に喰わないのか。むずかしいことである。人がどう考えていようときっとヘンリーは命がけ。5秒後に死んでいてもしかたがない。でも生きている。仮病をつかって抵抗するから。甥の名前をまちがえたりイヴにぽち袋を配るくらいは大目に見てやろう。

ひょっとしたら、どいつもこいつもひそかにあんりがうらやましいのではないか。なんであんなにもフリーダムに発想し、打たれ強く、フレンドリーとしていられるのだ、どこで永遠の若さeternal17を手に入れたのだ・・・。それほど彼のバランス感覚は完璧である。母のことが大嫌い(「私もよ」と彼女もかえす)と言いつつ、タバコでも散歩でも2人の仲は絵に猫いたみたい。ここは、愛からというより子の情けと解すべきだろう(ちなみに、レディーファーストとは、ある意味では生物学上のファクトにすぎないとも思う。それにしては、クラシックな男尊女卑オジンの意外な多さにいまさら驚くことがあるが、どうだろうか?)。それに、フーコー的政権的な意味で「生命そのもの」が問題となっている現代、いま‐ここで、母にとってもっとも「役に立つ」のは誰だと思っているのか。だが彼はあんまり弁明しない。それよりかうろちょろしている。幽霊?かもしれない。ニート?かもしれぬ。いまごろ逃走論(浅田彰)。すくなくとも、Henriはデプレシャンではない、ということはできる。無職の長男でもなくはないが¥。物はいいよう。そういえば、あのダンテス、のち伯爵を名乗ってから、こうもいっていた。

「わたしにはいろいろなことができるのです。」

つまり、こういうことだ。いぜんとして世界は彼の支配のなかにあり、、