ロックト・イン/二進法―「潜水服は蝶の夢を見る」について

原題の「潜水服と蝶」でいい気がするが、その辺省略する。ロックト・イン・シンドローム(閉じ込め症候群)という難病に冒された人物に関する映画であった。キャメラは主人公の視点を保って幕を明ける。意識を取り戻すと病室のベッドの上だ。ピントは合わないが視力に問題は無い。医師の問いかけには正常に応答している、つもりだが、全く伝わっていない。口が動かないためだ。首も足も一切動かせない。幸か不幸か勿論美人看護師にも手は出せない。死にたくても死ねない。彼に許されているのは、世界をみること、認識すること、だけであるかに思われた。が片目分まばたきするために必要な筋肉と神経は残った。



暫くして、之はメタ映画(映画の映画)だと気づかされた。ボビーの「目」と化したスクリーンに支配された我々観客が、まさにロックト・イン・シンドロームの状態におかれているから。映画に導かれて此の珍しい症例を学習し模倣せよと主張したいのでは無い。そうではなくて、「ひとがどう考えていようと、すでに《内部》に閉じ込められているのだ」*1と疑わせる説得力がフィルムの表層で揺れるのだ。うすうす勘づいてはいたがそうはっきり書かれると生きていけなくなるからやめてくれというかもしれないし、なんにも感じないで映画館を出た後は食べ歩きでもしよっかという話になるのかもしれない。ここで閉じ込められているとは正しくそういう状態を意味している。



ではどうすればいいのか。「潜水服」(ボビーは無神論者だがこの格好で海中を漂う姿は十字架を背負っているかのようだ)はいかに「蝶の夢を見」たか。この作品にはヒントが詰まっている。ひとつには「想像力(イマジナシオン)」と「記憶(メモワール)」を手掛かりにすること。編集、である。其時人はとべる。もうひとつは、より地道なやり方だ。彼と周囲の人々との対話はアルファベットを読み上げる事と「まばたき」で合図する事の間で交換される。それは気の遠くなる程時間のかかる作業である。健康だけが取り柄の一方(親父と元人質の二人はそうもいえんが)は根気よく一文字一文字アルファベットを並べていくしかないし、もう一方の植物状態は自分の欲しがっている文字が出てくるまで待っているしかない。もう二度とオープンカーはぶっ飛ばせない。ひとつずつ進むことと待つこと。話すこと。書くこと。それ以上何を求める事があるだろう。



この映画には微分化=ディファレンシエートされた独特な時間が流れている。これを形成するのは何遍となく繰り返されるアルファベット――E・S・A・R・I・N…と頻出順に並べ替えられた一覧表に基づいて発音される洗練されたフランス語――であり、氷山が解けるシーンを撮影したスロー映像に象徴される、ゆっくりとした時間論である。幅や奥行を、いやのみならず匂いや肌触りさえ感じさせそうな、消えないで欲しいと願うような時間性がここにはある。解け出した氷を、フィルムを逆回しするように元に戻すことは不可能だし、主人公が長くない事も自明だったが、いつまでも観ていたかった。

*1:柄谷行人「内省と遡行」文庫版あとがき