MERDE

屋上看板に「糞」の文字がある以外ジェネリック・シティ(=無印都市)としかいいようのない風景の拡がるTOYKO/東京。そこには無数の孔があいている。何の?マンホールの。そのひとつから飛び出てやって来たのは銀座・中央通り。服は意外にオシャレな緑色。斜めに曲がったひげ。片目は潰れている。それに舞踏のような跛行。すべてが変てこりん。しかもなんという自由さ!まずは一服。シャネルにもカルティエにも用はない。花を食わせろ、紙幣を食わせろ。写メールもちろんNGさ。ダンヒルなんかもどうでもいい。吸殻はベビーカーにポイ捨てだ……。つい「21世紀のマルドロール」(MerdeとMaldoは語感が似てはいる)とかいいたくなるこんなやつがほどなく無差別殺人を遂行し、日本社会の総意によって死刑になったとしてもQuestion of timeというものかもしれない。だが本当にそうなのか。

この男(?)、すなわちメルドを怪人とみなす見方がまちがいだとはいわない。じじつ、『ゴジラ』のテーマ曲が引用されるこの映画で彼は「下水道の怪人」と呼ばれるし、監督は作品をファルス―坂口安吾的なニュアンスにおける―として仕立てたから。でも、ぼくには彼のおかしなふるまいや考え、周辺の滑稽な環境が他人事には思えない。ここではメルドを、ぼくたちと同じひとりの具体的な人間と考えたいのである。

銀座に出没したメルドはまだ他愛ないものだった。しかし、こんど渋谷に現れたときは「様相」(=モード。原広司の概念)がちがっていた。メディアが怪物を怪物にするのだろうか。彼は東京の地下空間をネグラにしている。これはまずもって賢明な判断といえる。同じオムニバスでいなかのカップルが部屋探しに苦労するのと比べたら(『インテリア・デザイン』)。なんといってもタダである。0円ハウス(坂口。またべつの。恭平、総理の)。広くて閑静。その巨大な暗黒の世界をうろつきながら、偶然手榴弾をみつける。そう遠くない過去南京事件を引き起こした日本軍が戦車兵士もろともうち捨てた廃墟で。これら負の遺産を埋め立てて繁栄した東京という都市もまたべつの廃墟にすぎないとでもいいたいのだろうか。カタコンベの都市からやってきた映画監督らしいアイロニーではある。ということはこれは9.11同様凄惨で逆説的な「テクノロジーの自爆」(磯崎新)だ。法廷でメルドは傍聴人や検事にむかって「自分はお前たち全員の息子だ」という。彼の主張は正しい。これは広島・長崎の後も繰り返された核実験がゴジラを産んだようにかつての大虐殺に対する現代日本人の無反省が産んだ怪人による復讐なのだ。原爆投下のニュースに接するや、日本の降伏を心の底からいちばんのぞんでいたであろう中国の人々が真っ先に反対の声明を上げたという史実を知っているぼくたちは、世界人民の善意志にわずかでもなぐさめられる思いがするが、そういう甘美なセンチマンタリスムをカラックスは許さない。

ここでこの短編映画『メルド』の監督、レオス・カラックスとの個人的な距離感を測定しておくのもムダではあるまい。そもそも、若い映画ファンはレオス・カラックスという映画作家の名を知っているのだろうか。未知の歴史事実については「まだ産まれてません」と胸を張る国民性だから期待しない方が身のためかもしれない。ぼくにとっては、10代、20代を通してもっとも気になる作家のひとりであった。ただ不断に関心の的だったというわけではない。どういうことか。彼はたいへんに寡作だからだ。『ポンヌフの恋人』('91年)をふくむ3作をレンタルビデオで追いかけ、『ポーラX』が公開されたのが'99年。それから次回作、つまり『メルド』まで9年空いた。ぼくは30代になっていた*1。その間、カラックスの事を忘れたわけではなかった。食べているか心配もしたが、ぼくも社会に走り出そうとしていた。なにもかも気に入らずすべてを破壊してやりたいという衝動も沈静し、このどうしようもない世界にどうやったら未来の都市が建設できるかなどと考えるようになっていた。かつてメタボリストとその一団がやったように。芸術の領域を放棄しようとしたことさえあった。しかも一貫してカラックス以上に孤立していた(犬飼ってたからそんなん何でもナカッタ)むろん過去を私的に意味づけるつもりはない。

しかしカラックスは転向していなかった。世界を冷静に凝視しつつ、ほころびをめがけて遊撃をくりかえしていた。いや正確にどう考え生活しているかそれはわからないが、インタビューで「私は自分を映画作家とは思っていない、人生でときどき映画をとる人と考えている」と答えたという。こんなファンタスティックなマニフェストは聞いたことがない。あるいはまた劇中メルドに「とにかく人間が全部嫌いでたまらない、しかし自分が生きるのは好きなんだバーカ」といわせる。ぼくはひとりで世界を変えることはできないが、そんな人間が地球上に一人でもいるなら(彼の言語を理解するのは2,3人しかいないという。だから当ブログは他人事でないといったのだ)もう少し闘争をつづけてみてもいい、そんなことも思わされた。とにかく彼はまた映画を撮った。さすがカラックスという映画を。このソロバンでいけば次の映画は10年以上先だろう。ぼくは生きているかどうか知らないが(つなみに付注だ、「死は逃げ場じゃない!」byタカラヅカ)カラックスはきっと生きているだろう。そしてまた都市を掘り起こし爆破することだろう。それまでは彼の攻撃に備える演習期間ということになるなどといえば、選ばれた者のrichな遊戯だろうか。

この映画はあくまでファルスとして演出されている。それは監督のエチカかもしれない。それでも、一人でも多くの映画を愛する人に観て欲しいという紋切り型を書くことはできない。容赦なく過去のあやまちを掘り起こすこの映画を観る者はそれぞれ個人の持つ嫌な思い出を思い出すことになろうから。ぼくの場合は95年より数年前の個人史的なクライシスの記憶がよみがえった。善男善女(現代の日本人は気の毒にみんなそうだ)は観ないで通り過ぎた方がいい。DVDなら加瀬亮蒼井優だけ選んで再生する方がいい。ぼくはそうお薦めするが、しかもこの映画の内容に無関係でいられる人間などひとりとしていないということも同時にいわなければならない。

*1:蛇足をお一つ。建築界では、1976年生まれの柄沢祐輔さんを最左翼として「ミッドセブンティーズ」などとも言われる