異界への通路

映画『あの夏の子供たち』をみる

カラフルなクレジットタイトルが絵葉書のようなパリの街並みをバックに『あの夏の子供たち』は幕をあける。絵葉書のような、とは書いてみたものの、あまり適当ではない。さすがにエッフェル塔凱旋門ほどのステレオタイプなイコンが登場するわけではないから。それでも、シャンゼリゼやサン=ジャックといった有名な通りからのおそらくは歩く市民の視点で切り取られた風景が、まぎれもなくその都市の記号として作用している。そこはアパルトマンの外壁が明るく輝く夏のパリだ。われわれが最初に眼にするのは、この季節にその都市を訪れたことのある者やシネフィルにはもちろん、まだ行ったことのない者をも例外なくとりこにするあの明るい光である。この明るさはどこからくるのか。ひょっとすると、パリが内側にメランコリーを抱えたゆえの明るさなのかもしれない。いうまでもなくどこの都市にも数え切れない死者が眠っている。

主な登場人物であるグレゴワールはインディペンデント系の映画プロデューサー。ケータイ電話でいつでもどこでも仕事中で、娘たち―3姉妹のうちの下2人、ヴァランティーヌとビリー―からは「ケータイ人間」とからかわれている。あるいは新種のほ乳類とでも思っているのか。ちなみに奥さん(シルヴィア)はイタリア人。週末は家族5人でパリ郊外(ミリ=ラ=フォレ)の別荘で過ごすのだが、思春期を迎えた長女(クレマンス)にとってはいなかは退屈のよう。この女優アリス・ドゥ・ランクザンは、『水の中のつぼみ』(ちょい役)、『夏時間の庭』で知っていたが、グレゴワール役のルイ=ド・ドゥ・ランクザンの実娘らしい。家庭内にこれといった問題はない。借金や隠し子の存在、こうしたものはグレゴワールの自殺後に露出することだ。いまのところ彼はこんなうらやましい家族に囲まれている。あいかわらずケータイが気にかかりつつも、結構いい父親をやっているわけだ。

娘たちはみな可愛らしいのだが、映画の前半ではとくにヴァランティーヌに注目しよう。というのも、この次女と父との関係性がとりわけ深く丁寧に描かれるからである。しょうもないかくれんぼで子供の目線でふざけ合うシーンもあれば、「私とビリー」と喋ったのを、「ビリーと私」と文法を直されたり、「ローソク1個」とやったのを「1本」と直されたりする非対称的な関係でもある。5,6才のビリーはまだママン(マンマ?)とお姉ちゃんから離れられない様子だ。ヴァランティーヌは8〜10才くらいだろうか。撮影当時29歳にすぎない女流監督ミア・ハンセン=ラヴは、さまざまな年代(や国籍)の「女」をカメラの前に同時に登場させつつ、彼女の存在に、ある特権的な「時間」を重ね合わせようとしたと思えてならない。その「時間」とはなんなのか。男であるこの私にそんな疑問に答えられるはずはないのだが、とりあえず、こどもから大人へ移行するふるえるような瞬間だといっていえなくはない。

たとえば、こんなみずみずしいシーンがある。長女は残ったが、ラヴェンナへ家族旅行する場面がある。おそらくヴァカンスである。教会を拝観した後、川遊びする。父やビリーとこどもらしくはしゃいだあとで、ヴァランティーヌはひとり、流れの静かな所にやってくる。水が白濁しているので温泉かもしれない。ミレイのオフィーリアのように水面から顔だけ出して浮いているショットでは、髪まで水の下に隠れるから、まだ成熟していない胸の印象もあって、どこか男の子のようにもみえる。が、日焼けのあとは眩いばかりに白く、エロティックでもある。ポルノグラフィとはほど遠い、きわめて多義的な性的身体。この表象はどんなふうにも解釈できるだろうが、われわれにとっては、「夢」のような「時間」が描かれているというところに止めておけば十分であろう。そういえば先ほどの教会―サンタポリナーレ・イン・クラッセ―の白い大理石の柱列も「催眠術的なリズム」(N・ペヴスナー)を刻んでいた。冷静に考えてみれば、この「時間」とは、かつてシルヴィアやクレマンスがくぐりぬけてきた時間であり、まもなくビリーも経験することになるものなのだ。この映画の時間性を特異なものにしているのは、複数の女の経験する/した時間が、いいかえれば、過去・現在・未来が、明確に分節されないまま多層構造をとって流れていることによるのではないのか。ドゥルーズは『意味の論理学』第10セリーで「時間の二つの読み方」について次のように述べている。

 ある場合には、現在がすべてであり、過去と未来が指し示すのは、より小さな広がりの現在と、より大きな広がりを縮約する現在という二つの現在の相対的な差異だけである。別の場合には、現在は、何ものでもなく、純粋な数学的瞬間であり、現在を分割する過去と未来を表現する理論上の存在である。

どちらといえば、この作品の時間性は後者に近いといえる。


ところで、この映画の形式は、主人公のうちの一人の自殺を境に、後半に入ると考えてよい。ちょっと脱線してしまうが、「主人公のうちの一人」という微妙な書き方について。こんな書き方になってしまうのはこの作品では特定の「このひと」が主人公だとは決定しかねるという事情があるためだ。原題では「わたしの子供たちの父」だから、グレゴワールと考えるのが妥当かもしれない。だが、それでは「わたし」とはだれなのか。単純に「母」=シルヴィアとは断定できない。実在の映画プロデューサーをモデルにしたというのだから、おそらく「子供たち」とはミア・ハンセン=ラヴにとっての「作品」のメタファーでもあるのだろう。あるいは「母」はパリの擬人化かもしれない。いずれにしてもそれはまた別の主題である。このエッセイでは、この後も「子供たち」をめぐって進行することになるだろう。

物語に戻る。自殺の直接的な動機は資金繰りの行き詰まりのようにみえるが、はたしてそれで十分なのか。プロデューサーはまるで猫が死に場所を探すようにふらふらとオフィスを出て寂しい路上で唐突にピストル自殺する。最悪実家に泣きつけばいいさと高を括っていたのにそうはしなかった。観客および家族に彼の内面は明かされない。もっともわれわれの関心にとってはそれでもかまわない。シルヴィアが娘に言い聞かせるセリフ、「死は人生の出来事のひとつ」は、彼の死を自然災害ととらえているかのようでもあった。それよりもここでは、その少し前、クレマンスが室内で座っているショットからのシークエンスに触れておこう。なにがあったのか知らないが、髪をアップにして、父からプレゼントされた外国のイヤリングをつけ、背中が開いた余所行きの赤いワンピースを着たクレマンスが白を基調とした部屋の中央に座っている。彼女は見るからに暇そうだ。こんなに別嬪だったか?休日なのに予定はなさそう。仕方なくというかんじで、おチビさんの2人部屋に、ジョーロを持って花の水やりに行く。つづいて父の書斎へも。用事はこれだけである。あの娘はなにがしたかったのか?あたかも、次女と父との関係に嫉妬した脇役が必死で画面にアピールしにきたようにも思えるこのシークエンスは、ただ年頃の小娘というなんでもない性格描写にすぎなかったのかもしれない。そろそろ夏が終わろうとしていた。

伏線だったのかどうなのか、ともかくも、後半以降、フォーカスは次第に長女クレマンスに移って行く。ひと(動物でもいいが)が死ぬ時、うしなってはじめてその人の大きさを知るいう経験を誰でもする。と同時に、その人についていかに知らない事柄が多いことかと思い知らされる。笑顔の消えたクレマンスを襲っているのはその二重のショックだろう。彼女は父のオフィスに通い始める。また彼のプロデュース作品を鑑賞する。どう見ても駄作だが。そのうち、隠し子―彼女にとっては兄だ―の噂を耳にする。グレゴワールの映画会社「ムーン・フィルム」は、その子の名「ムーヌ」に因んだにちがいない。クレマンスは父の手紙を盗み読みし、元愛人の住所をつきとめる。兄には遭えなかったがむだではなかった。「ムーン・フィルム」の収益を養育費として送金しつづけていた事実を知ることができた。彼女の「喪の作業」は続く。グレゴワールは自殺の直前、ひとりの新人を発掘していた。正式契約を交わす前に死んでしまったから話は流れた。ある意味、その若者は「ムーン・フィルム」の「隠し子」である。この若い作家こそはムーヌその人ではなかったかと受け手に思い込ませる天才的な仕掛けがここにはある。彼と彼女はどうなっていくのか。私には演出家の意図がみえるようだ。彼と出会い、父のプロデュース作品―それらもまた彼の「こどもたち」だ―の感想を語り合う。ふしぎなことに再び駄作にせよ。二人で夜中のパーティにでかけ、そのまま彼の部屋に泊まる。いっちょまえに朝帰りしてカフェに入るが、注文の仕方が洗練されてない。はにかみながらココアに変更する。まだほんのコドモなのだ。二人の関係が発展する見込みはなさそうであるらしい。

そのころ、シルヴィアは夫の残したプロデュース映画を完成させるべく奔走していた。だが素人の手に負えるものではなかった。最終的に、会社は清算人の手に渡る。4人の家族は母の故郷イタリアへと旅立っていく。タクシーの後部座席で、外を見ながら3姉妹は号泣している。当然である。イタリア行きはシルヴィアが勝手に決めたことだ。彼女たちにとって、パリを離れることは、生まれ育った土地を忘却することのみならず、父を忘却することである。車窓の風景にむかってビリーは叫ぶ、さよならパリ!逆説的だが、忘れないためであるかのように。ポン・ヌフもセーヌもどんどん遠くなる。夏の光も行ってしまった。さらに今は車がヘッドライトを点けだす時間帯。「未来なんて誰にもわからないのよ」と歌うすばらしいエンディング・テーマを聴きながら、このタクシーはどこに向かっているのだろうと不安になった。シャルル・ド・ゴールとは反対方向のような気がする。私はときたま、現実の世界に対してもうひとつ別の世界があるのではないかと疑ってみたくなることがある。そこへの通路がどこかにあるのだろうか。すぐれた芸術には、そんな通路の在り処を予感させるものがある。無意識的にせよ、暗闇を懐中電灯で照らしながら、子供たちはそれを探していたのかもしれない。カメラは不思議な時間を捉えている。彼女たちはこれから幾度となくこの風景を思い出す。だがどんなやり方で?ある人はデ・キリコの絵を分析しながらこんなことを書いていた。「過去と未来とはいれかわっているかもしれないし、現在は過去か未来かどちらかであるだろう。」もしかすると夜明けは来ないのではないかと思わせるくらいに切ないパリなのだ。世界が褪色していく。