ビッグベン

建築史においてゴティック・リヴァイヴァル様式の典型として刻まれている「英国会議事堂」(うち時計台を愛称してビッグベン)はバリー卿+A・W・ピュージンによる協働とされている。ピュージン、誰?!すでにSirの称号も冠せられていた選民建築家チャールズ・バリーに比べ、オーガスタス(*Augustのラテン語形)・ウェルビー・ノースモア・ピュージンはたしかにある朝突然ヨットを買ってもらいたくなってすぐヨットを買ってもらうことができた素敵にイカレタ伯爵令息ではあったものの、社会的には始め職人見習いから始めた当時弱冠23才前後の版画デザイナー兼舞台美術お手伝いくん(友人の求人)といった身分でカソリック改宗とバツイチとヨット乗りが奇異ではある一ロンドンっ子にすぎなかったとも書ける。19才にすぎないオーガスタス・ウェルビー・ピュージンは18才にしかすぎない妻に先立たれ大いなる悲嘆にくれた。翌年、再婚した。この数年前、ピュージンはヨットで難破したし又借金で捕まった。名士の叔母にピュージンは叱られた。あと一説に、fascionが尋常でなかった、とも。こういうオーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージンは1812年(8月ではない)生まれということで、同年のディケンズを挙げてとなりに並べてみておこう。外国人なら2つ上のシューマンショパン、1つ下にキルケゴール、ならびに弘瀬金蔵の名たちをみつけることができる。こんなアクシデンタルな変人オーガスタス・ピュージンの登用は1830年代UKを見舞った国家的どさくさを表徴する出来事の頂点に君臨するといってよい。あらためて断るまでもないが、内政的には産業革命後第一回目の選挙法改正はピュージンJrに矢が刺さる2年前に施行されており、まだLIBORなど想像もつかないで拡張する大英帝国によるインド植民地化は着々と進行中であった。

父ピュージンがジョン・ナッシュ事務所出身であったところから推察する向きもあろうが、このころの支配的様式は当たり前のごとく新古典(より正確を期せば、パラーディアン・スタイルがねじれ溶解したジョージアン・スタイル)である。例えば「大英博物館」を見給え、もっとも、この時はまだ工事中だったのだけれども。バリーも御多分にもれず。マスタープランはほぼ100%彼の仕事と申せるだろう。ではオーガスタス・ウェルビー・ピュージンはどこを担当したのか?外層。様相。表層。表象。抽象。症候。消耗。妄想…。記法はいろいろ有り得る。だいじなのは、このミューテーション、この我々のロマンティックなピュージン(ピュア人?)の介入によってチクチク尖んがった垂直線が過剰に反復強調され、それまでの進歩史観がビリビリ破り棄てられてしまったことのほうだ。その閃光のような「凍れる音楽」はたんに専門家ムラにとどまらず都市の祭典TV中継島国組にもすっかり馴染みとなっただろう。やや暴論だが「芦屋カトリック教会」含めとおく20−21世紀まで伝染した建築史上のhysteric hypocentre。5文字に要約しちゃえば、伝統と革新。

なお、ゴチック・リヴァイヴァルについての様式上の解説に関してはここでは敢えて割愛することを表明しておく。代わりにというのか、ちょっとしたアイディアを投げ上げるなら、これを絵画におけるラファエル前派と平行的な運動(ヴィクトリア朝で落ちこぼれた「中世回帰」という共通項を持つ)と捉えてみるというのも一つの整理になるかもしれないし、ならないかもしれない。いずれにせよ、このあたりの議論に拘泥するつもりはない。したがってマイダイアリはアカデミックには無価値かもしれない。知ったことか。「ゴシック・リヴァイヴァル」において、著者ケネス・クラークをほかならぬピュージンその人に重ね合わせるエピソードを訳者近藤存志氏があとがきしているが、こんな読書案内くらいにとどめておく。それよりはあくまでフォルマリスティックに「英国会議事堂」の意匠、とりわけ、低層部のトレサリー等のディテールをこれから少しばかり丁寧にみていこう。