沈黙することも不可能である

実家で留守番していた。毎週、ミュージックステーションは少しだけ観る。すぐにつまらなくなったし、ちょっと思うところもあったので、デリダの追悼集を読んでいた。いまはこれとバッハのアリアだけが僕を慰めてくれる思いがする。沈黙も不可能だから。

しばらくして電話が鳴った。めんどうだったが、出てみることにした。おばあちゃん(好きな方死んだ)からだったので、「おや?」と思った。母が帰ったらかけ直してもらうしかない。「みなさん、元気?」と聞かれたので、ちょっと逡巡したが、会話のついでにそう言ってみただけかもしれなかったから、「うん、まあ」と返事した。

ぼくのお父さんとお母さんは、一般的にはお爺さんとお婆さんに近いので、実家の電話機は着信音を最大に設定してある。神経質なぼくの耳には、だからひどく乱暴に届く。ところが、不思議なことに、グランドマザーからの電話だけは、やや柔らかく鳴る。音量は不変なはずだから、音波がちがうのか。脳波が干渉するのだろうか。

ともかく、常に不快なそのしなもの(現在のパナソニック電工製)が、ばあさんからの発信にかぎって、その周波(としておく)だけで識別できるのだった。もっとも、この程度の伝心は祖母と孫との関係にとってはなんでもないのかもしれない。

が、だ。さっきの着信音は暴力的だったのだ。意外に感じたのはそのためである。なにかの便りでないといい。ふりかえれば、10年位前に会った時、県警の偉いさんだった祖父(陛下から勲章を受けてもいる)の墓前で、「おばあちゃんはまだ10年は生きそうやね」と語ったことがあった。そう語れば語ったとおりになるはずだ(≒「社会は言語のようになっていく」――バルト)という思い上がりが無かったとはいわない。あの頃は若かったし、神がかっている自己を過信していた。

それからまた10年も経ってしまったわけだ。いままで一体なにをしていたのだろう。また僕は元のひとりぼっちに戻っている。さっきのコミュニケーションをもう一度細部まで反芻して、体の中がつめたくなるのを感じた。

テレビは星条旗の映像に切り替わっていた。