九降風


上手に思い出す事は非常に難しい(小林秀雄「無常という事」)



渋谷で、トム・リン監督の映画「九月に降る風」をみた。夜のプールにとび込んだり、親友の彼女が気になったりというような古いタイプの青春映画である。しかも舞台は90年代の台湾・新竹市。こんなたわいない作品になにを期待すべきだろう。



ただ、画面に映し出される高校生たちは、それほど「他者」なわけではない。ポケベルで連絡し合い、セガサターンで遊び、勉強部屋にベジータ綾波レイの切り抜きを貼っているような高校生たちだ。つまり、ある意味では、彼らはかつての「僕たち自身」であるともいえる。いや、日本人がアメリカ人以上にアメリカ人だといわれるように、日本人以上に日本人である台湾人がそこにいるというべきなのだろう。



上映中、過去の自分のこともぼんやりと考えた。しかし、ここに書くようななにものもない。僕の高校生時代など、それこそこの映画以下のありふれたものでしかないから。まして映画の社会学的な分析など論外である。



これは勇み足かもしれないが、監督は、青春時代というものを、輝かしくノスタルジックに描こうとしているふしがあり、そこには根本的な齟齬をいだかざるをえない。ことわっておくと、僕はべつに過去と決別したいと考えているわけではないし、する必要もないと思う。ただ、ポジティヴに語ってしまうのはまずいような予感があるのだ。ではどうすればいいのか。実をいうと、なにが問題なのかさえよくわからないまま書いているのである。もっとも、彼らの甘美な時代も、台湾の野球賭博事件と鏡像段階をなしてがらがらと没落していくのだが。



卒業式の日、主人公は、会場にはいない。マウンドから、親友の形見となってしまった偽のサインボールを、打席に立つサインの本人にむかって投げる。それは彼なりの喪の作業だ。象徴的にすぎて、必ずしも成功しているとはいえない。というより、その失敗において成功しているというべきか。いっぽう、僕のボールは手の中に残ったままだ。スクリーンは僕自身をもその作業へと誘っている。