ミースが頂点だと認める

もう一度52丁目あたりまで戻ってきて「シーグラム・ビル」。多少地理か建築に通じている向きにはお気づきだろうが、9/30にすでにみている。が、その時は大した印象を受けなかった。警備のシェパードと漆黒のマリオンと噴水を構図に収めた写真を撮ろうと思ったのに注意されてイラッときたから、だけでもないと思う。パブリック・スペースからして別格だし、品がよくて整っているとは思ったが、それ以上の、高揚するようなものを感じなかった。そこで、ここにはVIPなバーもあったと思い出して、たまたま今日はジャケットだし、夜の状態を見に行ってみたのだ。それがよかったのだろうか。

照明の効果が大きいのか。足廻りのトラヴァーチンには初回はノーマークだった。周囲のオフィス・ビルとどこがどうちがうといえばよいのだろう。「場所に力がある」(アリストテレス)とでもいうしかない。この感覚はベルリンで「ノイエ・ヴァッヘ」に入った時に近いが、同じではない。物質、たとえば石というものの持つエネルギーが、身体にしんしんと伝わってくる。足の裏までじわっと温かくなってくる。古い細胞が死んでいって、目と手と足、また骨や血液を持っているということ、これ以上の幸せはないことを無言で教えるかのようだ。石とは、そこにあるだけなのに、かたく、やさしく、また不思議なものである。それは、稲妻のようにではないが、そこはかとなく衝撃的な経験であった。そのうち釈迦の「解脱」を体得する日が来るだろうが、そのときの体感はこんなではなかろうか。これは写真や図面ではもちろん、絵画からも映像からも得られない経験かもしれない。しいて挙げるなら音楽か(人間を含めた)動物だろう。ニューヨーク1の建築を尋ねられたなら、ぼくは「ミースのシーグラム」と応えるに躊躇しない。

ところで、「フォーシーズンズ・バー」だが、さすがに敷居が高くてあきらめた。かわりに、元「アメリカン・ラジエーター・ビル」、「ブライアント・パーク・ホテル」の地下にもあったことを思いつき、とにかく行ってみる。セラー・バーは、照明がほとんど赤のライトとキャンドルだけで、ハウス・ミュージックなんかがガンガンかかって、トイレに入ると中国人のおっちゃんが蛇口をひねってくれるというスノッブな雰囲気だが(デイヴィッド・チッパーフィールドからしゃーない)、バーテンダーのセクシーガールは谷間を強調しながらニコニコとよく働いて悪くない。オン・ザ・ロックス$14(お昼のプリフィックスより$5も高い)。が、そこはアメリカ、ダブルというかほとんどトリプルという勢いで並々とジャックダニエルが注がれる。ミース・ファン・デル・ローエをあきらめてレイモンド・フッドという選択もありかもしれない。

気分よかったし寒くないから、タイムズスクエアを通りぬけしてホテルまで歩く。各国のツーリストがデジカメを撮りまくっている。世界が笑っている。

ベッドに寝そべってテレビをつけたら、予想どおりトーキョーではなく、歓喜するリオ・デ・ジャネイロ市民の頭に紙吹雪が舞っていた。「祭典」はやりたいところでのみやられなくてはいけない。ツァイトガイスト